「トラウマは存在しない」——300万部の劇薬は、飲み込むのに勇気がいる
はじめに
「承認欲求を捨てろ」と言われたとき、正直なところ最初は反発した。
SNSで「いいね」をもらって喜ぶことのどこが悪いのか。人に認めてほしいという気持ちは、社会を動かす原動力ではないか。——そんなことを思いながら読み始めたのだけど、200ページを過ぎたあたりで、少しだけ考え方が変わっていた。完全に納得したわけじゃない。でも、何かが動いた感じはした。
それがこの本の不思議なところだ。
どんな本か
著者は哲学者の岸見一郎とライターの古賀史健の共著。2013年12月に出版され、2014年ビジネス書年間2位、2015年には1位。その後6年連続でランキングトップ5に入り続け、国内300万部(続編「幸せになる勇気」と合わせると370万部)、世界1200万部を超えるロングセラーとなっている。
内容は、フロイト・ユングと並ぶ「心理学の三大巨頭」のひとり、アルフレッド・アドラーの思想を対話形式で解説したもの。「悩みを持つ青年」と「アドラー心理学に精通した哲人」が5夜にわたって問答を交わす形式で、哲人=著者の岸見一郎、青年=古賀史健、という実際の対話に基づいているらしい。
テーマは大きく3つ。「目的論(原因ではなく目的で考える)」「課題の分離(他者の課題に介入しない)」「共同体感覚(対人関係のゴール)」だ。
読んでよかった点:「課題の分離」は本当に使える
この本を読んで一番「ああ、そうか」と腑に落ちたのは、課題の分離という考え方だ。
「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」——それを考えれば、誰の課題かが分かる。子どもが勉強しないのは子どもの課題。上司が自分をどう評価するかは上司の課題。親の期待に応えるかどうかは、親の課題ではなく自分の課題。
これを読んだとき、自分がどれだけ他人の課題に首を突っ込んで消耗していたか、あるいは他人の課題を自分のものだと思い込んで苦しんでいたか、がわかった。全部が解決するわけではないが、「これは自分が悩む問題か?」と一度立ち止まる視点は、日常でかなり使えている。
承認欲求の否定も、最初は反発したが、最後には少し納得した。「他人に認められるために行動する」とは、他人の評価によって自分の行動を決めるということで、それは結果的に他人にコントロールされた人生を歩むことになる——という論理は、シンプルだが鋭い。
対話形式の読みやすさも特筆すべき点だ。青年が読者の代わりに「でもそれは……」「それはおかしいんじゃないか」と突っ込んでくれる。哲人はそれを丁寧に崩していく。読んでいて、自分の中の反発が一つずつ処理されていく感覚がある。これが単なる解説書ではなく、累計1200万部の力を持つ理由の一つだと思う。
目的論——過去の原因ではなく「今の目的のために感情を使っている」という発想——も新鮮だった。「引きこもっているのは不安があるからではなく、外に出たくないという目的があるから不安を作り出している」という逆転の視点。初見では「そんな馬鹿な」と思うが、自分の行動を振り返るとぞっとするくらい当てはまることがある。
気になった点:「トラウマは存在しない」は本当か
ただ、手放しには喜べない部分もある。
いちばん引っかかるのは、**「トラウマは存在しない」**という主張だ。本書はフロイト的な「過去の原因が現在の苦しみを作っている」という原因論を否定し、「過去のせいにしているのは今の目的があるから」と言い切る。
これはある種の人には解放的に響くだろう。でも、性的虐待やDV、戦争体験など、深刻なトラウマを持つ人に「それはあなたが作り出している感情だ」と言えるのか。この主張は理論として面白くても、現実に傷を持つ人に当てはめると、残酷な自己責任論になりかねない。
実際、2017年にこの本を原作としたフジテレビのドラマが放映されたとき、日本アドラー心理学会が「アドラー心理学の一般的な理解とはかなり異なる」として放送中止か大幅見直しを求める抗議文を出した(Wikipedia参照)。本書の解釈がアドラーの本意を正確に伝えているのか、専門家の間でも議論があることは知っておきたい。
読書メーターの評価が42%というのも気になる。1万1000件以上のレビューが集まって、評価がほぼ真ん中に割れているということは、読者の半数近くが「おすすめできない」と感じているということだ。批判的なレビューの多くは「理論が極端すぎる」「現実では通用しない」というもの。
さらに、「読んですぐ意識が変えられるかと言うと疑問」(YAMATOエンジニアブログ)という指摘は正直なところだと思う。3年ぶりに再読した読者が「前回見落としていた部分がある」と書いていたように、一読で変わるほどこの本の要求は軽くない。アドラー自身も「本当の変化には半年から1年かかる」と言っていたとされる。入門書として読みやすく書いてある反面、「読んで終わり」になりやすい構造でもある。
「褒めてもいけない、叱ってもいけない」という主張も、言わんとすることはわかるのだが、現実の子育てや職場で実践するとなると途方に暮れる。理想としての哲学と、日常の生活との橋渡しが、本書には少し足りない気がした。その不満を解消するために続編の「幸せになる勇気」を読む必要があるらしいが、それはそれで商業的な設計のようで、少しだけ複雑な気持ちになる。
まとめ
| 項目 | 評価 |
|---|---|
| 読みやすさ・引き込み | ★★★★★ |
| 「課題の分離」の実用度 | ★★★★★ |
| 理論の極端さ・割り切り | ★★★☆☆ |
| トラウマ論の妥当性 | ★★☆☆☆ |
| 一読後の変化のしやすさ | ★★★☆☆ |
こんな人におすすめ: 他人の目が気になって動けない人。承認欲求に振り回されている人。対人関係で消耗している人。「なぜ変われないのか」と悩んでいる人。哲学的な会話を楽しめる人。
こんな人は注意: 深刻な過去のトラウマを抱えている人には、一部の主張が刺さりすぎることがある。「理論」として読まず「実践マニュアル」として読もうとすると、現実とのギャップにぶつかる。一冊読んだだけで変わろうとするよりも、続編と合わせて時間をかけて消化するほうがいい。
最後に一つ。この本のすごいところは、読んでいる間に青年と同じように「そんなことできるか!」と苛立つのに、読み終わると「でも試してみようかな」という気持ちになっているところだ。
思想として完璧ではないかもしれない。でも、何かを変えたいと思っている人の背中を押す力は、確かにある。
「嫌われる勇気」とはつまり、自分の人生を生きる勇気のことだ。——その定義だけは、素直に受け取ってみてもいいのかもしれない。
著者:岸見一郎・古賀史健 / 出版社:ダイヤモンド社(2013年) 国内300万部・世界1200万部(続編合算) / 6年連続年間ベストセラートップ5 / テレビドラマ化(2017年)