「世界はチンパンジーより知らない」――遺作が届ける、怒りではなく希望のデータ
はじめに
まず冒頭に13問のクイズがある。「世界の子どもで何らかのワクチンを接種している割合は?」「過去20年で、極度の貧困にある人の割合はどう変わった?」……選択肢は3択。感覚で答えると、だいたい外れる。外れ続ける。
このクイズ、チンパンジーがランダムに選ぶより人間の成績が悪い、という実験結果がある。しかもこの「人間」にはノーベル賞受賞者や、ダボス会議の参加者、国際問題の専門家が含まれているのだ。
「え、本当に?」と疑った。正直に言うと。でも自分でやってみたら、思ったより全然できなかった。これがこの本を手に取るきっかけになった。
どんな本か
著者はスウェーデンの医師・公衆衛生学者、ハンス・ロスリング。TED登壇のたびに独特のプレゼンスタイルで会場を沸かせ、その動画は累計3500万回再生された伝説のパフォーマーだ。2017年に膵臓がんで亡くなったため、本書は事実上の遺作。息子のオーラと、息子の妻であるアンナとの共著で、出版はロスリングの没後となった。
日本語版は2019年に日経BPから刊行、世界で300万部超のベストセラーとなっている。ビル・ゲイツはアメリカの大学卒業生全員にプレゼントするほど絶賛した。
内容は「世界についての思い込み」を10の本能として整理し、データを使ってそれを一つずつ覆していくもの。「先進国と途上国の二分法はもう古い」「世界の人口増加は止まりつつある」「極度の貧困は劇的に減少した」——こうした事実を、グラフと実体験を交えながら丁寧に説いていく。
読んでよかった点:「可能主義者」という言葉が刺さる
本書でいちばん印象に残ったのは、ロスリングが自分を「楽観主義者ではなく、可能主義者だ」と定義する部分だ。
楽観主義は根拠なく「きっとうまくいく」と信じる。悲観主義は根拠なく「どうせダメだ」と諦める。どちらも思い込みだ。可能主義とは、「過去のデータを見れば人類はここまで前進した、だからさらなる前進は可能だ」という立場だ。希望をデータで裏付ける、という姿勢が清々しい。
「チンパンジークイズ」の衝撃も大きかった。なぜ賢い人ほど世界を誤って認識するのか、という問いへの答えが「10の本能」だ。ネガティブ本能(悪いニュースのほうが印象に残る)、分断本能(何でも二項対立で考えたくなる)、直線本能(ある傾向がずっと続くと思い込む)……これを読むと、自分のバイアスの正体がわかる気がする。知らないうちにやっていた思考パターンに名前がつく瞬間は、気持ちがいい。
所得の「4段階分類」も鮮やかだった。「先進国」と「途上国」という二分法の代わりに、世界を1日の世帯所得で4つのレベルに分ける。実はレベル1(極度の貧困)の人口は全体の14%まで減り、大半の人はレベル2〜3に存在する。この中間層が世界の主役だというのは、「先進国 vs 途上国」という昭和の地理的感覚で止まっていた頭に冷水を浴びせるような話だ。
note(高井宏章氏)の書評にもあったように、本書にはいわゆる啓蒙書特有の「上から目線」がない。ロスリング自身の医師としての失敗談や、誤った判断をした経験が赤裸々に書かれている。「私も同じ思い込みの罠に落ちた」という率直さが、読者との距離を縮めている。
気になった点:楽観的すぎないか、データは古くなっていないか
すごく良い本だと思った。思ったのだが、少し立ち止まって考えると、引っかかる部分もある。
まず読書メーターの評価が42%という点。『サピエンス全史』と比べてもかなり低い。数千件の感想の中には「翻訳が読みにくい」「〇〇本能という表現が繰り返されて後半に疲れる」「楽観的すぎて危うい」という声が複数ある。note(Shin1.on氏)も「〇〇本能が繰り返されるので最後の方は少し疲れちゃう」と正直に書いていた。10の本能を10章かけて解説する構成は、後半になるほど「また同じパターンか」という印象を与えやすい。
より本質的な批判もある。「本書で紹介されている10の本能は、エビデンスや実験をもとにしたものではない」という指摘だ。実はこれに対してロスリング自身が脚注で「おっしゃる通り、これらは仮説にすぎない」と認めている(共訳者・上杉周作氏のnoteより)。本書が「データに基づいて世界を見ろ」と言いながら、その根幹にある「10の本能」の理論的根拠が学術的に確立されたものでない、というのは気になる矛盾だ。
さらに、本書の出版は2018年(原著)。引用されるデータの多くは2015〜2017年時点のものだ。その後、新型コロナのパンデミック、ロシアのウクライナ侵攻、気候変動の加速……世界は必ずしも「良い方向」だけに向かっていない。本書が示す「世界は着実に改善している」というメッセージは、発表当時のデータに依拠しており、それ以降の動向を反映していない。批判ブログ(わんこたんと栞の森)でも指摘されているように、「楽観視できる事実を取り上げ、悲観的な事実を軽視しているのでは」という疑念は、完全には払拭されない。
共訳者・上杉周作氏自身も、「楽観的な事実だけを並べてネガティブな事実を隠そうとするレトリックも政治やビジネスでは使われる。それに対してはダウトと言わなければならない」と述べている。本書がそのレトリックを使っているとは思わないが、読者自身も批判的に読む姿勢は持つべきだろう。
この本が遺作であるということ
もう一つ、どうしても書いておきたいことがある。
本書はロスリングが2017年にがんで亡くなる直前まで書き続けた、文字通りの遺作だ。序章には、余命を知りながら完成を急いでいたロスリングの様子が書かれている。彼は「この本を書き終えて死ねるなら本望だ」と家族に言ったという。
そういう背景を知った上で読むと、本書のトーンがただの楽観論に見えなくなる。世界が確実に良くなっている事実を、一人でも多くの人に届けたい——その焦りと熱量が、全編に透けて見える。Amazon・honto両方の感想で「最終章を読んで泣いた」という声が複数あった。私も最終章では少し心が動いた。
まとめ
| 項目 | 評価 |
|---|---|
| 衝撃度・読み始めの引き込み | ★★★★★ |
| データの説得力 | ★★★★☆ |
| 読みやすさ(後半含む) | ★★★☆☆ |
| 理論的厳密さ | ★★★☆☆ |
| 読後の世界観の変化 | ★★★★★ |
こんな人におすすめ: ニュースを見るたびに「世界はどんどん悪くなっている」と感じている人。グローバルな視野を持ちたいビジネスパーソン。自分のバイアスに気づきたい人。遺作という背景込みで一冊の本を味わいたい人。
こんな人は注意: 最新の世界情勢と照らし合わせながら読む必要がある(データが古い)。「楽観的なことしか書いていない」という感想も一定数あるため、批判的読書のできる人向け。翻訳文体が合わない人も一部いる。
最後に。読書メーターの評価42%という数字は、確かに低い。でもレビューを読んでいくと、低評価の理由の多くは「世界の悪化を直視していない」という感情的な反発だ。データが不快なとき、人は受け取ることを拒む。それ自体が、本書の言う「ネガティブ本能」の裏返しかもしれない。
ロスリングが遺した問いは、今もまだ有効だ。「あなたが信じている世界の姿は、本当に事実に基づいていますか?」
著者:ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド / 訳:上杉周作・関美和 / 出版社:日経BP(2019年) 世界300万部以上 / ビル・ゲイツ「名作中の名作」絶賛 / 著者は2017年没・遺作